PlayStationはSonyのゲーム機、多くの方がそれをご存知ですし、誰かに確認するまでもなく常識となっています。
ところがそうでないPlayStationが存在しているのをご存知でしょうか?
怪しげなコピー品ではなく、正式なライセンス品として作られたものです。
それが2015年に発見され話題になりました。
■Nintendo PlayStation
幻のPlayStationと呼ばれる試作機は、任天堂が出していたスーパーファミコン(SFC)の互換機として1991年に作られました。
作ったのはもちろんSonyです。
当時カセットゲーム機として発売されていたSFCですが、それに対してSonyがCD-ROMを使った拡張キットの売り込みを行いました。
しかし任天堂はCD-ROMに対して消極的で「やるならSony側で」と投げやりな形で委任したのでした。
その後Sonyと任天堂の間で合意締結され、SFCの拡張キットは任天堂、CD-ROM一体型のSFCはSonyが作ると決まり、一体型の試作機が作られたのです。
幻のSFC互換PlayStation
SFCのコントローラーにSonyとPlayStationのロゴがあるのはシュールな感じですが、紛れも無い本物です。
このように形までできていたのに、CD-ROMの需要からSonyが優位になることを恐れた任天堂が、拡張キットはSonyではなく別会社との共同開発を行うとしたため交渉は決裂、SFC互換PlayStationは試作機を残して消え去ってしまいました。
■任天堂がPlayStationに消極的だった理由
SonyがCD-ROMの話を持ち込んだ当時は市場にCD-ROMは普及しておらず、ゲーム市場はSFCの独占状態でした。
当然ROMカートリッジ(カセット)の優位性は崩れておらず、任天堂の支配下でもあったのです。
これをわざわざ崩す必要はありません。
Sonyの交渉が続けられている時、NECからPCエンジンが発売され、その周辺機器としてCD-ROMが登場しました。
しかしそれでも任天堂はCD-ROMを重視せず、ROMカートリッジでの生産に拘り続けます。
それはSonyのPlayStation、セガのセガサターンが発売されても変えようとせず、Nintendo64まで続くことになります。
それほどROMカートリッジに拘った大きな理由は、ファミコン時代から行ってきたサードパーティに対する販売数の制限とライセンス料の徴収にありました。
サードパーティがファミコンやSFCでゲームを出そうとすると、任天堂に対して製造本数と単価に応じた金額を支払わなければなりません。
そして1社が1年間で出せるゲームの種類に上限を掛けられてしまうのです。
建前は質の悪いゲームを乱造させない、供給過多を抑制するといった目的からでしたが、サードパーティにとっては販売前に巨額の支払いを求められることになるため、資金的な負担が重荷となってしまいます。
そしてその分を加えた価格設定をしなければ費用回収できず、かといって高額過ぎると売れないこととなり、逆に任天堂への支払い分が回収できない状態となってしまいます。
ファミコン初期から参入していたゲームメーカーのハドソン、ナムコなどの6社はこれを免除されていましたが、その免除をなくし、他社と同等の扱いをしようとしたためサードパーティの任天堂離れを引き起こす結果を招いてしまいました。
ハドソンはNECと提携しPCエンジンへ、裁判まで起こしたナムコはNECからSony陣営へ移ってしまいました。
この拘りが一時期の任天堂迷走の始まりとなり、Sonyブランドのゲーム機を世に出させる原因にもなってしまったのです。
■任天堂PlayStationはゲーム史の分岐点
任天堂に裏切られた形となったSonyは、同じく任天堂と決別したナムコを迎え入れ、開発機材を与えることで参入メーカーを増やすことを行いました。
最終的にはライバルのセガが3Dグラフィックを使ったゲームを発表したことが追い風となり、SonyのPlayStationは一大ゲームブランドとして誕生したのです。
それは任天堂PlayStation発表から3年後のことでした。
この任天堂PlayStationはたった1台だけしか存在していませんが、ゲーム史を大きく変えた物ですので博物館に展示されても良いほど貴重な存在です。
歴史の証人として大切に保管し、後世に伝えていって欲しいものですね。